カテゴリ:Column*( 12 )

ソーシャルネットワークなど

2008年以降、これまで当Blog等で行っていた自分の行動・活動の発信というものを
ほぼ遮断していました。1つの理由ではなく、もろもろの理由が合わさって。

性格にもよると思いますが、定期的に発信をしないと、どんどんどんどん発信がしづらく
なっていた感じがします。

そんなこんなで3年ほど経過(あっというまですね)した今、当時のmixi,Twitterあたりの
トレンドからFacebook、Google+とかソーシャルネットワークのツールが豊富になって
いる現状があまりうまくのみこめていません。

個人的にはツールはあくまでツール、そこでの中味が大事かと思うので、ツールを変えて
同じようなことをするのがめんどくさいと思ってしまいます。

新しもの好き、新しいものがもつ旨み(≒優越感?)、乗り遅れたくない思考などから流行っている
のかなと思っています。

現実社会でも人とうまく距離を撮るのが苦手な自分としては、ネット上でも距離感をうまくとる
自信がないなと思うのでネットにはこれまでどおり匿名的な部分で参加できたらと思います。

Facebookやっていないからハブられるみたいな感覚の付き合いであれば
現実、ネット上ともに必要ない付き合いかなと思うので。


久しぶりに文を書くと、まとまりがなくて残念な感じになるなぁと痛感・・・
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by hiroscene | 2012-01-04 19:37 | Column* | Trackback | Comments(2)

技術開発に携わる者の戯言(ていうか愚痴)

技術が人々の生活を豊かにする手助けが出来るのであれば それは素晴らしいと思うが、

昨今の社会情勢の中では

技術が人々の生活を怠惰で無感動なものにする手助けをしているような気がしてならない。

技術を使う人間が技術を評価することを怠っていること、
そして
技術を開発する側が技術を使う人間を評価するのを怠っていること、両方に原因がある。

そしてそれは技術を妄信することによる人間の驕り。
本質的には人間自身は全く進化していないし、むしろ人間にしか出来ないことさえ技術に
小さく落とし込まれようとさえしている。そしてそれを人間が技術に置き換わったと錯誤
すれば、それはすなはち人間自身が退化する方向に他ならない。

技術開発もやはり方針が重要だ。資本主義に妄信的な方針は、まるで世界大戦時の
技術開発の妄信的な方針に近いものを感じる。
今必要な技術の方針は環境、エコ関連なのだろうと思うが、それは技術が実現できる
内容よりも、人間一人一人の意識を高めるほうが効果が高いだろうということは容易に
想像できる。なにしろ、技術に依存した現代社会の人間の生活自体が環境破壊の連続
なのだから。そして、環境、エコ関連の技術がすぐに開発できるものであれば良いのだが、
開発する段階自体が環境破壊であったりもすることも多分にある。
(ex.ソーラーパネルから作り出されるエネルギーが、ソーラーパネルを作るのに
 必要なエネルギーを追い越すには10数年程度かかる、という話を聞いたことがある)

そしてより多くの人間一人一人が技術を妄信せず、人間がしたほうが良いことは人間がする、
という当たり前のことに気付く日がそう遠くないことを期待する。

人間自体がそもそも(理屈で語れる)技術に相反する一面を持つ存在なのだから。

あぁ、自分は技術者に向いていないのかな。とつくづく思う今日この頃。
(こういうことは得てして技術者には理解され難い内容なので)
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by hiroscene | 2007-07-08 02:31 | Column* | Trackback | Comments(5)

入江 悠 監督初長編【JAPONICA VIRUS】ロードショー中!!!

入江 悠 監督初長編【JAPONICA VIRUS】ロードショー中!!!

恐れ多くも小中高と学び舎を共にした同郷の友 入江悠 監督による初の長編作品、
“JAPONICA VIRUS”が9/30(SAT)より2週間、池袋西口シネマROSAにて
連日21:00~レイトショーにて上映されております!

初日9/30(SAT)に舞台挨拶ということで、これまた同郷の友人と3人で観に行ってきました。

舞台挨拶の場でもイヤミにならない程度のひねりが効かせてあって、場内はくすくす笑いの
渦に。終始ほのぼのしたムードで舞台挨拶は終わりました。

さて、作品。こちらはまだ上映中のため、詳細には触れませんが、終始緊張感を伴った
リズムを感じる場面展開とディテールにあっという間に引き込まれます。絶妙なリアル感と
絶妙なコミカル感のせめぎ合いとでも言わせてもらいましょうか。そして、これは帰りの
電車内で友人と感想を語らっているときにふと頭に浮かんだのですが、これは映画DJ的
作品か!?と感じました。
DJ的というかHIPHOP的というか、ネタをぶった切って張っていじってさらに打ち込みと
融合させて、というような、音楽シーンにも通ずるプロセス志向ではなくアウトプット志向
かつ、とらわれがない(が過去へのリスペクト、オマージュは根底に存在する)、
UNDER30世代的表現を色濃く感じるのでした。(便乗するわけではないですが、
僕も音楽ではUNDER30世代的表現者であると感じます(意図的ではないが自然発生的に))

そんな感じで、映画に疎い僕が解説をするのは躊躇われますので、ぜひぜひ貴方貴女の
ハートで監督渾身の作品を感じて振動して、新たなハートの鼓動を打ち鳴らしてみては
如何でしょうか?感じること、想像すること、で何倍にも膨れ上がる映画だと思います。

最終日、10/13(FRI)には
冨永昌敬(「パビリオン山椒魚」監督)×斉藤陽一郎(主演)×入江悠(監督)による
トークショー! もあります。ぜひぜひ御来場あれ!

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9/30(SAT)の初日舞台挨拶の様子
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by hiroscene | 2006-10-03 00:55 | Column* | Trackback | Comments(0)

東京タワー(リリーフランキー) を読んで

東京タワー、江國香織の作品でも同名のがあるんですね。全く知らなかった・・でも映画化
されたのをTVで観ていたわ。

本題へ。リリーフランキーという人物さえ知らなかった(後、友人の話で存在を知ったのだが)
個人的な初対面イメージは、モテル系の 自分が苦手なタイプじゃないかと。

まぁそんな先入観がありつつも、ひたすら読んでみました。あ、これも実家にあったので
(姉が買ったらしい)、読みました。430ページぐらいあるものを1日で読破しました。
これだけ集中して読んだの初めてかも。

とはいえ、面白かったから集中した、というわけではなくある種使命感のような読みきる!
に主眼を置いて達成感を味わうべく読んでいたような気が・・・

なんでしょうね、読書家ではないので感覚的にですが、文学的に優れているとか
多分そういうのではなくて 最近流行の?読者に目線を合わせた長いエッセイだなと
感じました。感動した、という意見も分らないでもないのだけど、僕が思うに一世代前の人たち
にとってはずいぶん当たり前の感動なのではないのかい?当たり前のものが当たり前
でなくなってきているからこそ、この本を読んで感動するのだと思う。

この本に感動した人は、この一時だけではなく日常的に感動し続けて欲しいなと思ったりする。
きっとこの本はそういうことを言っている。日常に感動は転がっている。人に対する想像力が
感動を呼び起こすのだから。

個人的にはそれほどパンチのある本とは感じなかった。この本が本気で売れているのだと
したら、よっぽどこの世が殺伐としていることを象徴していることを目の当たりにさせられた
気分になる。流行的に売れているのだとしたら、結構残念だと思う。
ただ、自分の親が亡くなることについて自分としても考えさせられるところは多分にあった。
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by hiroscene | 2006-08-20 13:39 | Column* | Trackback | Comments(0)

バカの壁 を読んで

存在はうっすら(社会に興味薄いな、俺)知ってましたが、最近自分の中で割りと本を読む
ことの良さみたいなものが芽生えてきていた&たまたま実家にあった、という理由で読んで
みました。

どうやら2003年に話題となった本のようです。割と自分的にはあらたな世界が見え始めて
いた時期だったので全く興味がなかったんですが、今調べてみたところ どうやら超バカの壁
なる本も今年出ているみたいです・苦笑

さて、大筋は日ごろ自分が身に沁みて感じていることと合致しており、そうだよなと思ったり。
要は
近年 確かな現象 と 人毎に異なるべき解釈 が混同されてしまっている、
つまり、解釈されたものが(一元的な情報として)確かな現象のように解釈されている為、
大元となる確かな現象の見える目線の人間との壁がバカの壁となってしまっている、
ということだと、自分の意見も含め 思いました。

昭和と違い目指すものがなくなって複雑な社会になったということも大いにあると思いますが、
個人的に思うのは情報化社会(いわゆるIT、以前のTV等のメディアの台頭)の影響によって
個人が考えることをしなくなった、のが一番の原因かなと。受身で必要十分な情報が素早く
手に入るという環境の中で、いちいち考えるよりも垂れ流される情報に乗っていった方が
選択肢も減るし何もかも速い、気がするのだから。

しかし、その速さも目的がない状態では何も機能せず、それはまさに機械・ロボットとなんら
変わらない。違うのは言い訳したり理不尽な文句をたれる点ぐらい。


この本にあまり説得力を感じないのはきっとこの養老さんが大学教授で、趣味が解剖という
一般人からかけ離れてしまっている点にあると思う。正直、大学教授にサラリーマンの事
について語られたくないわな。

サラリーマン、してごらん。そういうところに バカの壁、が存在していると思うのだけど。
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by hiroscene | 2006-08-20 13:08 | Column* | Trackback | Comments(0)

031015 失恋とJAM(JUDY AND MARY)と私

以下、2003年10月15日に書いた文です。失恋して半年以内だったので、昔を振り返って
センチになりつつも、前を向こうとしている感じが良く出ていて、自分で読んで面白いなぁと
思いました。


車に乗りながら久しぶりにJUDY AND MARYを聴いた。

車の中で聴くのは初めてだ。思えばドライブするようになったらジュディマリをがんがん聞く
ぞーと思っていたなぁ。4、5年前にね。ハローオレンジサンシャインとかOverDriveとか最高
だろうな~な~んて。

本来ベスト盤、とか編集盤みたいなオリジナルじゃないアルバムは邪道だという気がして
いて、ジュディマリ解散後に出たベストアルバムもほとんど聴いていない状態だった。

ドライブするにあたってベスト盤というのは持ち出すのに非常に気軽(物理的)かつ
気楽(精神的)だった。アルバムごとにカラーがあるし、当時は曲の流れ含めて聴いていて
非常に思い入れが強くなって印象が頭にこびりついているから、とてもじゃないけどアルバム
一枚だけじゃすまなくなってしまうから、逆にベスト盤のようにどの曲がどの順番で入ってるか
とかわからないぐらいで、バラバラになっているほうが都合が良かった。

そしてどの曲を聴こうというのもなく2枚組みの1枚目をかけた瞬間、OverDriveの印象深い
カッティングのイントロ。何度も聴いて、何度もコピーした。とても懐かしかった。

初めて聴いたのは高校1年の初夏。
良くわからず高校入って、自分が何者か、何がしたいのかよくわからないうちに、血気盛んな
年頃の中で、周りから浮いているのに気づいたけど何も出来なかったあのころ。あれから8年
か。あのころよりも大分変わったけど、変わらないところもあるかな。


不器用なところ
女性との接し方が下手なところ
大声を出せないところ
無意識に人を傷つけてしまうところ


変わってないなぁ。あのころと変わったところといえば、


ある程度自分の意見を持てるようになったこと
自分は自分だと自分のことを受け入れ、かつある程度の客観性を持って自分自身を
 知ったこと
自分から行動できるようになったところ
人のことを受け入れられるようになったこと
余裕を持ってゆっくり構えていたほうがいいことに気づいたこと
 そしてそのことで自分に余裕がなかったことに気づいたこと
女性の物の考え方が少しわかったこと
楽しみ上手になったこと
舌が鋭くなったこと
胃もたれがわかるようになったこと
親から自立したこと
一人の寂しさ、なぜみんな結婚するのか、人生全体についておぼろげながら考えが及ぶ
 ようになったこと
友達が増えたこと
ネガティブ思考を通過したポジティブ思考が出来るようになったこと
幸せになりたいと強く思うようになったこと


そして、JAMの曲の歌詞の意味が自然とわかるようになったこと、そしてそれまで狭いところ
しか見ていなかったなぁと思いつつ、今こうしてまた違う面でJAMの曲に心を揺さぶられている
ことがとても不思議で素晴らしいなぁということ。そして、今思うと恥ずかしい気がした。
と同時に、無知って素晴らしいとも思った。

夕暮れ、Hello! Orange Sunshine、手紙を書くよ、Cheese "PIZZA"
おめでとう、そばかす、LOVER SOUL、

この辺がわかりすぎるぐらいガツンと胸に響いた。当時ピンとこなかった反動というか、
一気にきた。

女ってすごいな。と思った。当時高校生ぐらいだったけど、まったくピンとこない自分がいる
一方で、10代女子にはピンときていたんだなぁ。
そらぁ何考えてるかわからない、って中学のクラス紹介の文(一人ずつ紹介文が女子学級
委員に書かれた)で書かれるよなぁ…。ズレてるんだよね、きっと思考とか行動が。

同じ言葉を聞いても、感情、空気、温度、雰囲気、いろんな物を感じているんだな、と。そういう
色々敏感に感じる女の子って自分にとってとても魅力的に思う。そういう女の子を泣かせるん
じゃなくて、喜ばせあげ続けて、という言い方は嫌だけど、そういう子の笑顔を見続けられ
たらなぁ、と後悔を含めながら思います。泣かせてばっかりだったなぁ…。

手紙を書くよ、を聴いたときは目が潤んでしまった。


雨上がりサンデイ しましまの傘はいらないわ
飛び起きてマンデイ 服を着てもう出掛けなくちゃ

緑の森をずっと歩いてたら
フワフワのリスを見つけたよ

うまくいかないチューズディ 涙で目の前がくもった
あなたに髪を なでてもらう夢を見たのよ

あたしの悩み、迷い、生きる喜びのすべてを
花束にして空に掲げながら
風の中で思い出してた

あなたが教えてくれた うれしい たのしい やさしい気分
遠い空で ああ 今 同じ気持ちでいるなら
大きな文字で手紙をかくよ ありがとう

走ってたウェンズデイ 笑ってたサーズデイ
立ち止まるフライデイ 側にいる気がしたサタデイ
心の中に虹がかかった

あなたが教えてくれた うれしい たのしい やさしい気分
遠い空で ああ 今 同じ気持ちでいるなら
時間も超えて届いてほしいのに
ああ 今 若草色のノートに
忘れないよう手紙をかくよ おやすみ

P.S あたしは見た
   手を振る
   あなたを見た


苦しくなりました。ハローオレンジサンシャインは失恋した女の子の気持ちを想像して聴くと
納得な感じがしたし、おめでとうは結婚した友達を祝福する一方で、まだ先行きがまったく
決まっていない女の子の気持ちになるほど、って感じだったし、チーズピザのとろけるって
感覚も当時と今では全然リアルさが違うなぁと。

当時よりも全然今の自分方がそういうことに対してリアルに感じてて、今更遅いほろ苦い青春
の最中なんだな、と思った。こういうスピードの時代にあって、やっぱり世間ズレしちゃってる。

でも、僕は一つ一つをおろそかにしないで、大切にしたいと思ってる。いちいち自分に影響を
与える物に感謝しちゃうし、逆に影響を与えていきたいと思うし、自分を大切にしてくれる人を
大切にしたいし、助けを必要としている人の手助けをしていきたいと思う。

先人の智慧に関心するし、自分でも既存の物事、決まりごと、システム等に新しい智慧を吹き
込めたらいいなと思うし。きれいなものに感動したいし、きれいじゃないものにも心を動かされ
るようでありたいし。

どれも僕にとって大切で、もしスピードを重視することによってそれが
失われるというのは悲しいことだと思う。


まぁ笑顔でい続けないで泣くから女の子が魅力的でもあるかな。それにしてもそういう感情の
触れ幅の大きさは魅力的に思うけど、そういう女の子が世間に台頭してきているのって
やっぱり女性が強くなってる社会だな、と感じたりもした。

感情の触れ幅の大きい女の子はかわいいけど、求めすぎる女の子はかわいくない気がす
る。何事も過ぎたるは及ばざるが如しということなのかな。求めすぎる、というか男はそうして
当然、然とされるとちょっとね。

頭の固い男も嫌だけど、都合のいいとこだけ頭やわらかくて、男に求める、”男らしさ”っていう
のは結局昔の名残で、そういうのも頭固いんじゃない?って思うのはおかしいのかな?

家事をやってほしいとも言って、男らしくして、とも言う。それはわがままだと思う。かと思え
ば、妻に仕事を続けてもらっていながら、家事、子育て、教育を女性に望む男もいる。

女だけでもないか。わがまま人口(大人に成りきれない人口)が増えたってか。でもまぁ女性
上位の時代なんだなぁとつくづく思った。

論理的。
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by hiroscene | 2005-02-13 17:35 | Column* | Trackback | Comments(0)

理屈は悪くない

理屈っぽい、という言葉はしばしば悪い意味で使われることが多く、ことさら自分にも投げかけ
られることがあります。特に女性に言われると100%悪い意味で、凹みます。

まぁそんな自分を擁護するわけでもないんですが、理屈ってそんなに悪いこと
なのでしょうか?いや、悪くない。

なぜなら理屈は共通言語に成り得るから。
理屈を軽んずる人はローカルルールというか、結局自分に都合良いように何事も解釈する
に過ぎない。それはわがままであり、子供の理屈だ。

理屈が悪いのではなくて、

・理屈に縛られる考えを持つ
・理屈を理解していないのに頭から理屈を避ける
 (頭から理屈を避けることは、理屈を認めないという理屈に縛られている)

このようなことが悪いと思う。

理屈を理解した上で、理屈に縛られることなく、状況と自分の気持ちで判断していきたい。
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by hiroscene | 2005-02-13 17:01 | Column* | Trackback | Comments(0)

常識って何?

さぁ、また週ナニを書いている途中で週ナニでは書ききれない事項が浮かんできてしまった
のでColumn*にて書かせていただきます。

常識について書きます。常識って何でしょう?早速MSN辞書検索で。

 (1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。
 「―では考えられない奇行」「―に欠ける」

 (2)「共通感覚」に同じ。

  三省堂提供「大辞林 第二版」より


なるほど。(1)は思っていた通りだったけど、(2)のような意味もあるんですね~。
しかし、情報化社会、そして価値観の多様化した社会においては、(1)の意味での常識、
というものが無くなりつつあり、(2)の意味でのごく狭い範囲での常識というものを
(1)の意味だと錯覚してしまうことが日常茶飯事になっています。

しかもあくまで“感覚”であり形が無い為、その時々や場所、集団によって、個人の都合の
いいように常識が解釈されて、ますますわけわからなくなります。そんな背景や、
“個性的”、“自分らしさ”等というキーワーズも手伝って、“常識”を盾に俺が常識だ、
と言わんがばかりに我を主張する人たちが増えているように感じます。“俺”が常識なので、
違う考えの人はマイノリティだから、相手にしないという感じです。

傍から見て、我がままな子供にしか見えません。常識という言葉が悪いというつもりは
ありませんが、常識という言葉が元の意味を失って、わがままを正当化するような都合の
いい言葉になっているぐらいなら、いっそ常識なんていう言葉がないほうがいいんじゃない
かと思うのです。

かつて皆が同じ方向を向くことが許されていた時代は、“常識”という言葉にはプラスの
イメージがあったのではないかと思います。常識のある大人、もっと常識を身につけなさい!
等。変わって最近では、常識という言葉を出そうものなら、つまらない、そんなの常識、
そんなことも知らないの?、のようなあまりいいイメージではないと思います。

そもそも、さっきのように(1)の意味を(2)と取り違えたりする時点で、その人が発している
意味と、受け手が取る意味が異なるわけです。そんな事象を一つの言葉で伝えるなんて
到底できることではないと思うのです。それなのに私達は日々小さな誤解をたくさん
繰り返しながら、人を傷つけたり傷つけられたり。

宗教の違いで争いが起こるというのも、“宗教という常識”が違う集団同士がお互い
“常識”を盾に行動する為だと思います。常識の範囲が広がれば、きっと共存できると
思うのです。

大きな争いに限らず、個人的なことでも争いが起こるときというのは、お互いの常識が
違う為に、誤解を生んでしまうことにあると思います。

だからそもそも常識なんてそうそう通じるものじゃない、と常に頭の隅に置いておけば、
自分の言葉が通じないときに、常識が違うんだな、わかるように伝えなきゃ、とか
自分はこの人が知らない世界を知っていて、自分が知らない世界をこの人は知って
いるんだな、というような気持ちが生まれ、争いにはならないのでは?


常識という概念が一言で通じる範囲は予想以上に狭いということを理解している人は
どれぐらいいるのでしょうか?自分と違う相手に意図したとおりに物事を伝えることって、
本当はとても難しいことなのです。

自分の中で当たり前のこと、自分が伝えようとしている事柄がそのまま相手に通じることは
ほとんどなく、誤解されても仕方ないと思っていたほうがいいのかなと思います。そして、
絶対誤解されたくないことは時間をかけ、自分の常識の押し付けの無いように。自分の
常識から説明する必要があります。

だから、自分は常識という言葉はあまり使いたくないし、使うとしたら学校で教わるような
内容であるとか、社会の仕組みに関する部分であるとか、世界規模で見ても通じるような
概念、そして概念でなく、一意に定義されているような明白であるもの、にしか使いたくない
です。


そんなことを考えるようになったのは、小中高大そして社会に出る流れの中で、だんだんと

・自分と関わる人間に常識として伝わる事柄が少なくなったこと
・直接会わず、電話、さらにはE-Mailのみでコミュニケーションするなかで誤解が生じる
 ことが非常に多いこと(特に仕事で)

大きくはこの2点について日々ストレスがたまったり、傷つけられたり傷つけてしまったり。
そんなことがあるたび、以上のようなことをもやもやと考えていました。

成熟してきている複雑な人間社会、誤解の多い社会の中で、少ない言葉で自分のことを
理解してくれる存在に出会えた時は、自分にとってこの上なく至福で貴重な時です。
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by hiroscene | 2005-01-10 16:53 | Column* | Trackback | Comments(0)

最近思うこと

さて、週末ナニしてたを書いている勢いで書いてみますか。

週ナニを見ればわかるように、最近少し前がウソのように部屋にこもって過ごしている。

去年の7月ぐらいから、今年の10月ぐらいまで土日両日フルで部屋にいることなんて
1、2回あったぐらいだと思うぐらい土日は外に出ていた。部屋の環境整えるための収納
用品を買ったり、友人と会ったり、飲んだり、ライブ行ったり、サーフィン行ったり、CD借り
たり、姉のフリマの手伝いで車出したり、バンドの練習したり、ドライブ行ったり、なんや
かんや忙しかった。とりあえず面白そうなことだったり、誘われたものには食いついて予定
入れていた。遊びに行ったり人に会ったはいいが、疲れでろくにしゃべれなかったりして
何してるんだろ、と思ったりも結構たくさん。
仕事も忙しくなってきて、平日の疲れをとるべき土日も外出て疲れるので、かなり体にも
負担をかけてしまい何度かダウンしたりも。
確かに毎土日予定でいっぱいなのも悪くないし、色々するのも楽しいんだけど、疲れている
状態だと吸収率が悪いって言うか、何もかもが中途半端になっている感があって5月ぐらい
から、もうしばらくしたらしばらく一人でいる時間を作ろう、と漠然と思っていた。

でも、夏場はおもろげなFESも結構あり、なかなか休めなかったが朝霧JamでようやくFES
も一区切りついて、さぁ休むぞ!という勢いで今に至っている。
最初はすぐ飽きるものかと思っていたけど、一人で過ごす(まったく外に出ないとか・笑)
土日もなかなかいいものだと実感。まぁそれは自らそう過ごしているからそう思えるのだと
は思うけどね。外出たいのに遊び相手がいない、という状況だったらかなり苦痛なんだろう
な、きっと。思えば、昔から一人で過ごすのが好きだったぽい。友達が遊びに来ても一人で
プラモ作りたいからとかいう理由で断ったりしてたし(笑) 今思うとせっかく誘ってもらった
のに悪いなぁ~と思うけどさ。

今一人で部屋にいてやっていることは、ひたすら整理。溜まっているTV録画、読んでない
雑誌、聴いてないCD、etc。部屋にいてももう何もすることないぐらい、一通り色んな
物を整理しておきたい。今はそれができる時だと思うし、するべき時なのだと思っている。
大学から今年の秋まで、ひたすら情報を集めたり、何かあれば体験しようとしてきたと
思っているけれど、社会に出て絶対的にプライベートに割ける時間が決まってきたため、
物を増やすことは賢くないなと思うようになった。物を集めても、全て見切れない。

これまでは割と決め事をしないで広く物を集めてから有用な部分を取り出すようなことを
やっていたけれども、これからは初めからある程度絞った状態で、必要な物を集めて
必要なものだけ身近に置いておくようにしたいと思っている。そう変わったのは、ある程度
自分の、ものを見る力に自身がついてきたこと、年齢的にもそろそろ幾つか打ち込むことを
絞って、中途半端を脱して自分を確立したいという想いからである。

色々情報を集めて行動することは、視野を広く持つ為には欠かせないことだけれども、
集めることが目的になっては仕方ないし、情報を集めているだけではなく、それを調合、
解釈することが一番重要なことだと思う。特に情報を集めることが容易になってきている
昨今では、頭でっかちになりがちである。だが、結局人間として生きていくということは、
行動、感覚が全てである。思考だけでは感覚は得られない。行動することによって感覚
が得られる。

今、自分が絞ろうとしているのは音楽、サーフィン、職、衣食住、心の繋がり、だ。
まぁ衣食住、と言ってしまうと全てになっちゃうんだけどね。結局絞ると言っても全て
つながっているから、それぞれに振り分けるバランスが変わるということか。
音楽は発信側に立てるようになりたかったり、サーフィンは趣味程度でいいけど、
日常的にやれる環境が欲しい。衣はOn-Offを使い分けられるようになりたいし、
食は旨いものを食べたいし作れるようにもなりたい。住はサーフィンのこともあるから
海に近い所に住みたいし、心の繋がりは今の友達ともいい関係でいたいし、音楽、
サーフィン他、趣味、感覚を共有できる新たな友も欲しいし、人生の伴侶も欲しいし
職については、これらの条件を満たせるような仕事をしたいわけで、そういう意味では
今の仕事でもやる気になれば満たせそうな気もするし、リーマンしながらこれらもこなす
というのも自分のスタイルなのかもな、と思いつつも、より負担のかからない職がないもの
か模索中。と、とにかく貪欲なのです、自分。

それらを実現する為には、稚拙な情報に時間と場所をとられていることなどなく
(というか、そういう情報を拾わないようにすべし)、環境はシンプルで、自分の中身は
豊潤な状態で(経験に基づいた情報・知識、そしてそれに裏付けられた鋭い触感)、
物事に触れ、アウトプットしていくような生活をしたいと思っている。

一人で部屋にいて色んな情報の整理をすることで、中身を豊潤にすることと環境をシンプル
にすることの両方について前進できている感じがする。まぁ一人でいることはむしろ自分の
中身を豊潤にすることについていいことではないとは思うが、触感を磨く意味で、ある程度の
下地みたいなものは不可欠だと思うし、今はそういう時期でもあると思う。

来年3月で25歳になる。そういうバックグラウンドが、ここ3ヶ月ぐらい自分の思考をこういう
方向に向かせている。いや、別にあせっているとかいうことでは全くなくて、区切りの時なの
かなと思って自分を見つめなおしてみようという気になったのだ。
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by hiroscene | 2004-12-06 01:53 | Column* | Trackback | Comments(0)

危機感から危機観について

今日は結構まじめな話。
半月ぐらい前に友人と危機感について話す機会があって、いつか文章にしようと
思っていたのだが、今日まさに書かざるを得ないと思わせることがあったので書きます。

今日あった出来事とは、例の日本人旅行者監禁、首切りの映像を見たことだ。まず、
あまりに生々しくてまともに見れなかった。怖くて音量も途中で消してしまった。そもそも
映像に収められた、リアルに人が死ぬ瞬間というものを見たこと自体が初めてで
リアルな現実(物理的なものの動き感)衝撃を受けた。次に殺される本人の気持ちを想像
して恐怖を感じた。これほど気持ち悪くなったのは初めてだ。
そんな思いでこの世界から争いが無くなって欲しい、と切に思った。ここで重要なのは、
小泉首相が悪い、とかイラクが悪い、とかブッシュが悪い、とか何か一つのものに責任を
押し付けないことだ。そもそもそんな一つの要素が原因で起こる出来事であったのならば、
すぐに悪いものが無くなるように動いていくだろう。原因が複雑であるからこそ、同じような
ことが何年も続いてしまう。
ある事象が起こったとき、事象を起こした対象を非難するのではなく、事象を起こした
背景について考えることはできないものか?争いからは新しい争いしか生まれない。
考えることからは新しい考えが生まれる。新しい考えが争いの起こる背景を変化させ、
争いを食い止める。

それでも考えること、嫌いですか?できませんか?

映像を見て、恐怖ではあったが、戦争についてようやく実感する機会になった。
2001/9/11以降、戦争、自衛隊派遣等ニュースになるキーワードはあったわけだが、
正直な気持ち、自分の生活している範囲では何事が変わったわけではない。
世界中の多くの人にとってもそうではないのだろうか?何事か変わるのは、戦争の現場
周辺に住む人々、戦争に直接かかわる人たち、身内ではないだろうか。
直接死にかかわるその人たちにとっては非常に大きく気が気でない出来事であり、
戦争を止めさせるように、避けるように、また、自らを守るように自ら行動することだろう。

しかし、あくまでニュースで、そしてマスコミのフィルターを通してしか伝えられない
ことに対して、危機感を持つことができるだろうか?というか、そもそもそんなことを
考えることさえしていなかった。
そんなわけで戦争の状近などのニュースをみても危機感がなかったが、身近な人
たちから危機感の無さを指摘されるようなこともあった。しかし、指摘するような人に
限って、ニュースでメインに取り上げられる事柄が変わるたびに戦争のことなど忘れた
かの如く関心ある事柄が変わる。おそらくその手の人々にとっては戦争も、ジェンキンス
問題も、サッカーも、野球も、イチローの記録も、オリンピックも、全て並列な事柄でしか
無いのだろうと思われる。彼らの言う危機感は、話題についていけない危機感にほど
近いものと思われる。危機感がある場合、他の事柄よりも問題の事柄について自主的に
行動するだろうから。
そしてまた、この手の人たちは受けた情報についてあまり考えることをせず、これは
こういうものだ、と決めつけがちだ。このような人と議論をすると、大方テレビでああ
言ってた、そういうもんだ、あの人が言ってた、というような口調が聞かれ、自ら考えて
いないことがわかる。そしてそれが原因で自らに不都合なことがあった場合、ほとんど
の場合自らのせいにしない。

直接ではないにしろ、そのような人が争いの生まれる環境を形成しているのではないかと
思ったりする。何か都合の悪い事が起こったとき、起こった原因を自分ではないある事象
のせいにし、そしてそれが悪い、と短絡的に決め込むことで自らではない悪いものを
つぶす行為が起こる、それはすなわち争いの始まり。外的要因に対して良いか悪いかの
判断力が問題なのではなく、ある要因について何が原因で、それがどこにあるのか(外的
なものと決め込まないこと)が問題だ。自らを省みることなく、外的要因に対してのみ
良し悪しの判断を求めると、どのような判断になろうとも、結局争う対象間同士に悪いところ
が存在することになるため、争いは無くならない。

考えることをしない限り、被害を受けた側は被害を与えた側を悪いと考えるだろうし、被害
を与えた側は正しいことをしていると考えているだろうから被害を与えるのであろう。
考えることで自らの中に原因を見つけることもあるだろうし、まったく両者に関係の無い所
に原因があるのを見つけるかもしれない。そんなわけで、

それでも考えること、嫌いですか?できませんか?

まぁそもそも考える為にはある程度の自分との距離、すなわち危機感が必要です。
これまで一連の流れの中で危機感がありませんでした。しかし、今日の出来事によって
危機感を持ちました。まぁこの危機感というものは個人個人の危機観によって生まれてくる
タイミングが異なると思います。
僕にとっての危機観とは、自分の会ったことある人が巻き込まれた事象であったり
(精神的な距離)、日本、はたまた関東地方、東京都、区市、町内、等(事象によって
範囲は変わりますが生活に影響が及びそうな範囲(物理的な距離))、2つの距離に
よって生まれてきます。これまでのニュースでは僕の危機観に引っかかりませんでした。
今回の事件の映像は既存の危機観を突き破ってくるほどあまりにリアルで、恐しいもの
でした。それは本能に訴えるほどのものであると思います。そして、それは恐らく大多数
の人々の危機感に訴えるものであると思います。殺した側の人たちは世界の多くの人達
の危機感に訴え、考えさせ、本当の意味での解決を求めているのかもしれません。
手段はあってはならないものですが、そうせざるを得ない窮地、環境に追い込まれている
のかもしれません。(そうであっても人を殺すことで危機感に訴えさせる以外に、手を打つ
術を考えられなかったのだろうかと考えてしまいますが)

日本人一人が残虐な殺され方をした事象を単なるニュースとして、そして多く考えること
なく、誰が良い悪いを論じるのではなく、背景について考え、想像し、自分にできることを
することなく争いが無くなるほど世界は狭くないし、単純なものではないはずです。

得てして危機感を持たずしてそのように考え、想像することは難しいと思います。今回の
残虐な死を無駄にしない為にも、誤解を招くかもしれませんが、できることであれば
例の映像がより多くの人の目に入り、危機観を突き破って本当の危機感に訴え、一人
一人が争いの背景について考え、行動し(一人ではできることは限られるが、より多くの
人の意識が向かうことで大きな力になる)、争いのない世界になって欲しいと考えます。
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by hiroscene | 2004-11-11 00:26 | Column* | Trackback | Comments(0)